雪国の方には申し訳ないのですが、私が住んでいる横浜では雪は貴重でして、年に一度降るか降らないかで、降ってもすぐに雨に変わって積もりません。
日常が白銀の世界になり、どこへも行けないあの不自由さの非日常感が好きで、ニュースで積雪と聞いてから窓を見てばかりで、クライマックスは朝一のカーテンです。
でも残念ながら今日は降りませんでした。
さて、世界には雪が降らない場所もありますよね。
その「降らない場所」も、細かく分けると、滅多に降らない場所と、絶対に降らない場所に分かれますよね。
じゃー、その境目、例えば100年に一度の大寒波くらいしか降らない場所。
そこに、今から1000年前に雪が降った時、人々はどう思ったでしょうね。
「荒ぶる神の祟りじゃー」
「悪魔の仕業ジャー」
「生贄を持ってこい」
今なら「おいおい。」て思いますけど、でも、実際にうちの近所の神社には、海の安全祈願の生贄が人柱として入っています。
たかだか400年くらい前の話しですよ。
「祟りじゃ。」と「おいおい。」の違いは何でしょうね。
何がその違いを生むのでしょうか?
それは、知識ですよね。
哲学の始まりもそんな感じでした。
「それって本当は神じゃないんじゃね?てか、神っていねんじゃね?」と、命懸けで(当時は神を否定するのは命がけです)
実験を繰り返し、データを集め、事実を解明しめした。
そして解明した後は、科学や気象学、地質学という専門分野をつくりデータを引き渡し、次々に世の中の怪しい伝説を斬っていきました。
当然、現代でも潜在意識、宇宙の声、アファメーション、因果、言霊、集合意識、それらの怪しいスピ伝説もぶった斬って事実を解明しています。
そう、こうやってただ知識をつけるだけで「え?100年前ってそんなことしてたの?」て思える訳です。
当然、今の常識も10年後には覆されています。
どこまで先の知識を得られるか、それで「祟りじゃー」と「おいおい」が変わります。
間違った知識で踊らされたくありませんね。
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