岸本達也です。
私は現在フリースクールの主宰を仕事としていますが、今まで教育のための教育を受けたこともなく、設立当初は何も知らないまま勘を頼りに手探りで仕事を進めて来ました。
無知故に失敗したことは数多くありますが、それ以上に知らなかったからこそできたことの方が多かったのかも知れません。
幸いなことに、私の教室を卒業した生徒たちは全員再登校していますが、以前はなにも分からないまま試行錯誤を繰り返すしかありませんでした。結果は出続けていたとしても、その理由が分からないというのは不安なものです。
哲学者の考えに触れる中で、生徒たちが結果を出し続けた理由がおぼろげながらも見えることがありました。
その一つが「現代消費社会」について分析された言説。
50年以上前に刊行された本に記された考え方でありながら、このコンセプトは現代社会の様相を驚くほど的確に指摘しています。
曰く、生活必需品が人々にあまねく行き渡った大量消費社会における価値とはその商品が持つ「機能」や商品化に要した「費用」ではなく、商品に付加された「記号」だということ。
無意識的に人は「個性」を追求させられており、商品を購入することの目的は、その「機能」を手に入れることではなく、そこに付加された「記号」を手に入れることに変質してしまっています。
この言説に基づくと、何らかの商品を販売する立場としては、自身の商品に他とは異なる意味(=記号)をつけることで「価値」を訴求しようという戦略に意識がいくのかと思いますが、私は全く別の受け止め方をしています。
私が考えたことは、人は「記号」で物事を認識するのであれば、その「記号」自体を張り替えてしまえば良いのだということ。
つまり、「日本の教育全体が不登校の問題に打つ手なしという状態なら、日本における従来の不登校に紐づいた「記号」を張り替えること。
要は「不登校」という現象の意味づけを変えることにより新しいアイデンティティを不登校の子に手渡すこと」
そして「新たな意味づけ」とは具体的には、
「不登校は素晴らしい子育ての結果、素晴らしいお子様だからこそ」
「不登校になっても可能性は狭まらない、むしろ広がる」
「不登校の子は歴史に名を残す偉人天才革命家と同じ資質を持っている」
こんなことを機会あるたびに発して来ました。
新たな意味づけは世の中の常識とは異なります。
時に多くの方の考えを否定することにもなります。
従来の価値観を手放せない人にとっては面白くないこともあるでしょう。
いろんな場所で叩かれてきました。
意味づけの書き換えは時に勇気を要する作業となります。
私は哲学者達の言説に触れることで、なによりもその勇気をもらっていたように思います。
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