コミュニティは卒業しなければならない

こんにちは、山田です。

さて、もし皆様ご自身が、ある先生に師事したり、コミュニティに属している場合、その先生やその場との関係性はどのようなものでしょうか。

私自身は、いろいろなコミュニティとは長くお付き合いさせていただく方ですが、それでも数年経てば一旦は距離を置くようにしてきました。
(哲学は7年目ですが、続けているのは別の理由があります。)

なぜならば、数年経てば先生の視界や言っていることの全体像がおおよそ捉えられてくるからです。

その状態になってくるとコミュニティでも知った顔が多くなり、居心地は良くなり、先生との距離は近くなってきます。

コミュニティの「幹部」へと昇格している状態ですね。

でも、逆に学習の加速度は減少してしまいます。

そして、先生自身もそのような方に囲まれている状態が続くと、停滞します。

数年経って先生に再会したとき、先生の仰ることがあまり変わっていなかったのを見たときには「この場に居続けなくて良かった」と自分の歩みを再確認したこともあります。

(もちろん、当時お世話になったその先生のことは大いにリスペクトしています)。


さて、哲学者のF・ニーチェは「畜群」という概念を定義しています。

孤独というものを知らず、己の孤独を持つことなく、人間関係の軋轢におびえ、快適、安楽という幸福を求める現代の一般大衆のあり方を評した言葉です。

過激な言葉ですが(西洋哲学塾の本コンテンツでも出てきますが、ニーチェはかなり過激です)、私自身は人の成長に関わるものとして、これを「恒常的な人間のカテゴリー」ではなく「一時的な人間の状態」であると受け取っています。

誰しもが「畜群」の中の一匹になり得るし、誰しもがそこから抜け出し「その先」に向かって歩き出せると。


先生ビジネスやコミュニティビジネスは、ビジネスモデルとしては非常に取り組みやすいものですが、一方で馴れ合いの人間関係を生みやすいものです。

自立した精神を持つ「強者」の学びにはその先に見据える「目的」がありますが、「弱者」の学びは「つながり」それ自体が目的となってしまいます。

よっぽど気を確かにして運営しないと、学習、成長、成果というコミュニティの本来の目的ではなく、「畜群」と化した弱者の群れに依存され、船底にフジツボがびっしりとついた船のように、リーダー自身がその速度を減速させてしまいます。

そして、不健全な売上だけは上がり続け、いつしかリーダーはかつての輝きを失い、過去の財産の焼き直しで生きていくようになる。

もしかしたら、金銭面からみた一人のビジネス人生としては「成功」と言えるのかもしれませんが、そのようなコミュニティにはたして社会的な価値はあるのでしょうか?

リーダーはそのような「成功」をしたかったのでしょうか?

人は弱いもので、顧客も先生自身も容易に「畜群」の一員と化してしまう生き物です。

先生ビジネスやコミュニティビジネスは構造的にそこに墜ちやすい形をしています。

だからこそ、(仮に求められていないとしても)顧客には常に「先」を見せようとする姿勢が不可欠ですし、先生自身も、さらにその「先」で必死にもがいている、ということが顧客に対しての最低限の誠意であると考えております。

もちろん、私を含め、クレメンティアに参画している講師陣も、東京大学監修のコンテンツなどに振れながら「その先」の世界で大いに苦闘しています。

人は年を取ったから老いるのではなく、自己否定ができなくなったから老いるのである。

「新・哲学塾」においても、皆様がこれまで見てきた世界が大きく否定できるような学びの場をご提供していきたいと思っています。

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この記事を書いた人

クレメンティア代表世話人及び「新・哲学塾(仮称)」設立準備室室長。

普段は「エグゼクティブコーチ」として、上場企業から気鋭のベンチャー企業までシニアリーダーのリーダーシップ学習を支援。現代哲学に基づくクライアント自身の視座が上がるコーチングが特徴。「東京哲学会議」特別貢献会員。

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