私たちは視覚を通じて何かを見る時、近くにあるものほど大きく見え、遠くにあるものほど小さく見えます。
一つの視点で物事を見ると、良くも悪くも見る対象に強弱がついてしまう人間の性質。
そんな当たり前のことをわざわざ概念にしたのが「遠近法」です。
例えばレオナルド・ダヴィンチが描いた「モナ・リザ」。
この絵を見て、もちろん背景に意識を向けることもできますが、人物に対して背景の情報量が圧倒的に少ないですし、「背景」だという位置付けで見ることから逃れることは簡単ではありません。
どうしても人物が主役になってしまいます。
言い換えれば、どの視点で見るかによって、何が主役かが決まってしまいます。
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この性質は、第三の習慣「最優先事項を優先する」を考えた時にも同じことが起きます。
最優先事項は、私たちがどういう物事の見方をしているかによって決まっており、「実際にやっていること」が現状の視点から見た最優先事項そのものになっているということに気付きます。
どんなにクダラナイと感じていることに時間を使っていたとしても、現状はそれを最優先としてしまう視点で生きている。
「最優先にしたいと思っている(割と高尚な)こと」と「実際に最優先にしている(割とどうでもよい)こと」の不一致が起きている時、それはその不一致が問題なのではなく、前提となっている視点が問題なのではないでしょうか。
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一方で、「最優先事項を優先できている」と感じ続けている人はもっと深刻な問題が起こり得ます。
それは最優先事項を優先しているのに、視点自体が変化していないからです。
本当に価値のあることをしているのであれば、視点は当然変化し、成長していきます。
昨今、科学やテクノロジーが進化する中で、既存の枠の中で個別スキルを磨いたところで差別化要素になりづらくなっています。
どんなスキルも必ず上には上がいるのが現実ですし、AIに代替されてしまうようなスキルも今後増えてくるでしょう。
そういう意味で、これからの価値は「個別スキル」ではなく「物事の見方の差」で決まる時代になってきているのだと思います。
であれば「最優先事項を優先できている」と感じ続けていること自体が危険な状態だと言えます。
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例で挙げた「モナ・リザ」でいえば、その絵の最優先はどこだということを明確に言うことはできないはずです。
「目」を最優先にしたのか?
「微笑」と言われるその表情を最優先に描いたのか?
「服の質感」を最優先にしたのか?
「光の描き方」を最優先にしたのか?
「背景は脇役」なので適当に書いたのか?
全てそんなことは無いはずで、絵の細部に至る全体が最優先だったはずです。
全体が最優先ならば、もはやそこに最優先というものはありません。
「最優先事項を優先する」前に、最優先事項を優先するのような「当たり前にしか思えないようなこと」に対して、見方を変えてみることが最優先なのかもしれません。
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