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人間のサガと考え続ける姿勢

こんにちは、山田です。

「存在A」の記事「多様性の誤解」についてご質問をいただきました。

「共通言語」という単語をどのような文脈で使っているのか」というのがご質問の主旨だったかと思います。

まず、このご質問、「文脈を問う」という視点の置き方が素晴らしいなと思いました。


何か物事を受信するとき、人は必ず自分の文脈に引き付けて理解します(突き詰めていくと構造上そうならざるを得ない事情があります)。

そして、そのことに気づかないでいると、自分の文脈から相手の発言の正誤を判断し、評価していきます。

その判断、評価は、その人の文脈からすると正しいのですが、その文脈は元々の発言者が表現しようとした文脈とはすれ違ったものになっていることも多いです。

こうして社会のいたるところで議論のすれ違いが起こり、文脈が共通されない「神学論争」が起こり、人と人のコミュニケーションにはあらぬ感情が渦巻いていくことになります。

そんなすれ違い、僕自身もこれまでいっぱい見てきましたし、仕事としていっぱい解決してきました。

こじれると本当に大変だし、人は寛容さを失っていきます。

ですので、相手の言葉や発言がどういう文脈で使われているのか、というところをしっかりと見るという姿勢はとても大事です。

それができるだけで、コミュニケーションの問題はほとんど解決すると思うのですけどね。


あ、すみません。ご質問の答えでしたね。

「共通」も「言語」も意味に幅があり、ものすごく多様な文脈の中で使われる言葉です。

ですので、今回のご質問については、

「是非何度も文章をお読みいただき、「存在A」の論述の中で「共通言語」という言葉がどのような文脈で使われているか、というところをご自身なりに推測していただきたいと考えています。」

というところが回答になります。

というのも、この場では「一つの正解」について共通理解を得たいのではなく、日々、コンテンツをご提供することによって皆様の思考を耕したいという願いがあるためです。

私はそのような姿勢が「哲学的な態度」であると考えていますし、皆様の視点を上げるトレーニングになると信じており、そのことが私たちが皆様との間で「共通言語」になればよいなと心から願っているものです。

ということで、今後も様々な観点から話題提供させていただきますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします!

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この記事を書いた人

クレメンティア代表世話人及び「西洋哲学塾」塾長。

普段は「エグゼクティブコーチ」として、上場企業から気鋭のベンチャー企業までシニアリーダーのリーダーシップ学習を支援。現代哲学に基づくクライアント自身の視座が上がるコーチングが特徴。「東京哲学会議」特別貢献会員。

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