「寛容さ」いう意味を持つクレメンティア。
今、このタイミングで寛容さをテーマとして取り上げているのには理由があります。
まず、寛容さとはどのような状態を指すのかについて、一つには自分の立場や思考に囚われず、他者の考え受け入れていくことが挙げられます。
この状態を「多様性」であったり「ダイバーシティ」というキーワードで語ったりします。
自分が所属している組織や、住んでいる地域の関係だけでなく、あらゆる人とつながる可能性を持っている現代にとっては当たり前の概念と言えます。(実際出来ているかは別として)
なので多様性や、それによってもたらされる寛容さが重要であることは当たり前の話で、今さら言うまでもないことかもしれません。
しかし、言葉というものの運命と呼ぶべきか、原理と呼ぶべきか、時間とともにその意味は変化する性質を持っています。
特に「多様性」という言葉はあまりに使い古され過ぎて、最も劣化が激しい言葉の一つと言えます。
なぜそう言えるか。
ここで「多様である」ということを考えると、多くの場合はお互いの「違い」について語られる場合が多いと言えるのではないでしょうか。
例えば男性と女性の違いや、国籍の違い、考え方の違いなどについての多様性とか。
しかし、ここで一歩引いて考えてみると、いくら違いを意識したとしても、人間と犬の多様性、人間とアメーバとの多様性、人間と椅子との多様性という言い方はしないと思います。
そう、多様性と言っている時点で、実は「どちらも大して変わらない」と言っているのと同じなのではないか。
多様性やダイバーシティなどという偉そうなキーワードを使わなくても、日常によくある他人との意見の食い違いなどで対立する場面も、その原因はその違いにあるのではなく、むしろほとんど同じだからこそ、ちょっとした違いを過剰に問題だと見ているだけの場合がほとんどです。
ビジネスの場面でも、「お互いの強みを生かして…」などと言ってコラボレーションしても、そもそも何を共通としているのかについての認識が希薄であったり、表面的であったりするため、うまくいかないケースが多く見られます。
その背景には「いいね」や「共感」という言葉がもてはやされ過ぎて、表面的な一体感を超えた、深い共通認識を持つ機会が逆説的に少なくなってきていることが関係しているのかもしれません。
なので大した差が無いにも関わらず、何か「違い」に着目せざるを得なくなる。
多様性に関わる問題やや寛容さの欠如は、その「違い」がどうあるかに関係なく、むしろ「何を共通言語にしているのか」という基準をお互いに理解していないことにあると言えます。
人間は機械ではありませんので、それぞれ違っているは当然。
共通言語の質こそが、寛容さの質を決定し、人生の質を決定していきます。
コメント