幸福に生きるための条件として、最近「自己理解」の重要性が説かれています。
例えば、
「自分は何が好きなのか?」
「自分にはどのような価値があるのか?」
「自分は何を苦手としているのか?」
「自分は何にやりがいを感じるのか?」
これらを自覚することで、自分が何をすれば幸福になるかが分かり、幸せを見つけられると。
では、これらの問いに答えるにはどのように考えていけばいいでしょうか?
「自分の好きなことを100個書き出してみる」
「自分が3歳児の時にハマっていたことを思い出す。」
「自己分析ツールを使う」
「個人年表を作成する、棚卸しをする」
世の中では、これらの切り口によって、自分を理解することができるということになっているそうです。
また、コーチングやカウンセリングという仕事も、広い意味では、この自己理解をサポートするビジネスとして成り立っていると言えます。
ところで、最も身近であるはずの「自分」が、わざわざ自己理解という言葉を使わなければならないほど一つのテーマになるのはなぜなのでしょうか?
それを考えてみるに当たって、一度立ち止まって考えてみたいことがあります。
それ「何を持って自分を理解したと言えるのか?」という問いです。
例えば、人はどのように自分を説明するでしょうか?
「愛媛県出身です。」
「35歳です」
「○○会社に勤めています。」
「△△という会社を経営しています。」
こういった内容でしょうか?
はたまた、
「自分は○○を目指しています」
「過去の××という経験をしました」
という、未来や過去に関する説明の仕方もあるかもしれません。
しかしこれらは自分に関係することなのかもしれませんが、「自分そのもの」の説明にはなっていません。
そうなると、「自分」とは、そもそも有るのか無いのかも実は断定は出来ず、周りの環境との関連性によってあると思わされているだけのものかもしれません。
だとすると、世の中は目まぐるしく変化している中で、「自己理解」という言葉の元に、自分に関連していそうなことを、自分自身だと認識してしまうことは、むしろ人生に制限を加え、余計な問題を生み出してしまうことになるのではないでしょうか?
また、自分が周りの環境によって作られるものならば、周りの現実を見ず、自分の内側だけに向き合うことで、むしろ自分を失っていくことになるのではないでしょうか?
無いかもしれない「自分」という存在に依存することで、もし現実を見ることを放棄すれば、幸福から遠ざかることなります。
何かを理解をしようとする前に、そもそも理解しようとしている対象はあるのか?
「自己理解」に限らず、様々なことで考えるべき問いだと思います。
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