こんにちは、西洋哲学塾塾長の山田です。
西洋哲学の基本は「懐疑する(疑う)」ことです。
前提を疑うことによって目の前の問題に新たな展開を見いだしていける。
当事者が西洋哲学の素養をお持ちかどうかは不明ですが、世の中、そうした哲学的思考が発揮されている物事にしばしば出会います。
今日はそんな記事のご紹介。
『高校ラグビー部の監督はなぜ「部活をクラブに変えた」のか?』
https://number.bunshun.jp/articles/-/848537
私自身もアメフト部出身ですが、近年、こうした「コンタクト(接触を伴う)スポーツ」の競技人口はどんどん減少しています。
理由は危ないし、痛いし、しんどいから(たぶん)。
そして、それをささえる「部活」という概念も、昭和的な勝利至上主義のブラックな印象は拭えず、価値観の多様化と共に現代的にはオワコン化してきています。
そんな現場で高校ラグビー部の指揮を執るこの記事の監督さんは、活路を「クラブチーム化」に見いだしました。
「部活」と「クラブチーム」の違いは、後者は門戸が広く開かれており、他校や(年代が高校生相当であれば)学生でなくても参加出来るという形です。
記事によると、高校生のラグビークラブチームは全国に2チームあって、この記事のチームが3校目、ただし高校の「部活」が母体になるチームは初めてだそうです。
普通の思考だと
「「部活」を機能させるためにはどのような手段があるか」
を考えます。
でも、この先生は考えたのだと思います。
「部活」はなぜ「部活」でなければならないのか?
この問の深さが、解決策の広がりを生んでいきます。
いち教育現場の話ではなく、人生や仕事でも何でも、問の質が思考の質を決めていくというよい事例だと思います。
さて、ここからが本題。
このお話では「前提をメタ認知して考えるのが大事なんだな」ということが理解出来ます。
でも、それを理解しただけでは、私たちは前提をメタ認知して考える事はできません。
言い換えると「前提とは何か?」ということについて、もう一段深い思考が回っていないと、「前提を疑う」ための思考はできません。
この点が、西洋哲学を学ばないとなかなか理解の及ばないところ。
現代哲学の思考は、さらに世界の本質を突き詰めており、例えばこのテーマでしたら
「「部活」は「部活」でなければならない、と私たちに考えさせる構造はどのようなものなのか?」
というところを問うていきます。
優雅な白鳥が水面下で必死に足を掻いているように、エレガントな問のバックグラウンドでは、さらにその前提を疑う問が機能しています。
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