言葉の「電気抵抗」
「一を聞いて十を知る」という言葉があります。
賢明な人の状態をあらわした言葉ですが、現実的な感覚としては1を伝えてそのまま1伝わればまだ良い方で、実際には0.5も伝わっていないのではないでしょうか。
みなさん、普段の意思疎通、どんな感じですか?
人と人との情報伝達は電流と同じように「電気抵抗」があって、途中で大部分が失われていきます。「伝言ゲーム」とかを想像していただくとわかりますよね。。
情報の伝達を妨げる最大の要因
では、情報の伝達を妨げる最大の要因はなんでしょうか。
それは、受け手側が「自分に引き付けて意味を理解してしまう」というところにあります。
具体例を出してみると、例えば「電車の中に大勢の人がいます」っていう情報も、都心に通勤している人と、ローカル線にたまにしか乗らない人では思い浮かぶ映像は違うはずです。
逆に「1両に50人が乗っていました」っていうファクト(Fact)について、「少ない」と感じるか「今日は多いね」と感じるかは人によって全く異なります。特に、テレワークが増えた昨今では、おなじ人でも感じ方が変わるでしょうね。
一つの形容詞、または一つのファクトにしてもこれだけ受け取り方に幅があることを考えてみても、人と人の情報伝達は結構難しいことがわかります。
これは、突き詰めると情報伝達の媒介となっている「言葉」という道具そのものに潜む欠陥によるもの。
電車の乗客の話ぐらいならまだ罪はないのですが、ビジネスにおけるコミュニケーションや日常の人間関係においてはなかなかやっかいな問題となってきます。
そういうことですので、相手の言いたいことをそれ以上に受け取れる「一を聞いて十を知れる人」は世の中において大変に重宝されます。
「一を聞いて十を知る」状態のつくりかた
では、「一を聞いて十を知る」という状態はどのように創りあげられるのでしょうか。
結論から言うと、相手の発信する情報を受け取れる割合は「視点の高さ」に比例します。
そして、視点の高さは、普段接している情報によって養われます。
どの階層の情報に接するか
ひとつ、私の棲むコーチングの業界を例に取って説明してみましょう。
まず「コーチング」というメソッドは「心理学」に基礎づけられているのですが、ある程度深めていくと、心ある人は「ある事実」に気づきます。
それは「心理学」を「コーチング」という「メソッド」として精製(体系化)する過程で多くの背景情報がそぎ落とされているということ。
ですので、心ある実践家はコーチングの上流である「心理学」の領域に足を踏みこんでいきます。
ただ、心理学にも様々な潮流があり、現代的の心理学は昔とは大きく流れが変わっています。
この流れを知らず、古い心理学を学んでもあまり大きなブレイクスルーはありません。
言っていることに何のインパクトもないと言いますか。。。
潮流の変化のみなもとはどこか?
ここで、大事なのは新たな潮流を知るということですが、それよりももっと根本的に大事なのは、心理学における潮流の変化がどこからきたかということへの理解です。
震源地を知らないと、表の流れだけに翻弄されてしまいますし、心理学の潮流の変化の意味も深くは理解出来ないはずです。
そして、その震源地こそが、哲学の世界にあり、そこでのパラダイムシフトが心理学を含む学問の各分野に大きな潮流となって影響を与えているというのが全体像です。
以上はあくまで一つの例ですが、古代より哲学は「学問を生み出す学問」として教養の頂点に君臨してきました。世界に対して純粋な問を持ち、その軌跡として下流に学問を創り出す存在です。
例えば、何かを数えようとして数学が興り、物体の動きを解明しようとして物理学が興り、人間社会を上手くやっていく方法を創ろうとして、法学や経済学が興り、人の心を解き明かそうと心理学が興りました。
全て哲学における「問い」を源流としています。 -
「哲学者」になる必要は無い
もちろん、私たちは哲学者になる必要はまったくありません。
たぶん普段の社会生活に支障を来しますので(笑)。
大事なのはそこじゃなくて、このような構造を「知識」として知っているかどうか、ということです。
知の最高地点に位置する哲学の領域がどのような問題意識を持ってどのような議論を積み重ねてきたか。
これを知っているだけで、あなたがかかわっている領域や日常の景色も圧倒的に見通しが良くなります。
第1話で「木を見て森を見ず」のお話をしました。
「森」という「木々を生み出すシステム」がどういうものかを知っていれば、森の中に育まれる一つひとつの「命」のことをより深く理解することができます。
「哲学」という言葉についての大混乱
さて、少し話は変わりますが、この「哲学」ということば、世の中的には様々な意味で使われています。
特に話を混乱させるのが「成功哲学」とか「人生哲学」といった表現。
「〇〇フィロソフィー」と英語で語られる場合もありますが、これらは今語っている「哲学」とは完全に別物です。
私たちのお伝えしたい哲学は、現代社会の基礎となっている「西洋哲学」の領域。
個人の意見でしかない「オピニオン」と共通言語として磨き上げられた「サイエンス」は似て非なるものです。
(余談ですが、哲学は「サイエンスとは何か」という境界線も明確にしていきます。)
どんなに高名な人が語っても、どんなに実績を上げた人が語っても、どんなに素晴らしいものであったとしても「個人の意見」はどこまでいっても「オピニオン(憶見)」でしかありません。
日本語の辞書には「哲学」の意味として末席に記されていますが、この文脈では除外します。
「哲学」そのものに対する誤解
そして、もう一つの誤解は「哲学は人や世界の「真理」を解明しようとするものである」ということです。
こっちの方が大事な誤解。
もちろん、かつてはそうでしたよ。
その残像があるので、現代でも人生に迷った人や生き辛さを感じている人達は、「真理」について議論してきた過去の哲学者の思考に生きるための「道しるべ」を見いだしていきます。
ただ、今の哲学は違います。
議論の末に「確定的な「真実」は無いのだ」というところに到達してしまった哲学は、そのあり方を換え、物事の奥に潜む構造を暴き出し、あるいは、人や世界の理解の明晰さを増すための「方法論」へと変化していきました。
この議論の転換、そして、その後の哲学の眼がどのように世の中を捉えているかというところが、今回お伝えしたい「哲学」の本筋です。
自分を救ってくれる「真理」を知りたい人にとっては残念なお知らせですが、地に足をつけてビジネスをしていこう、あるいはご自身の生活を生きていこう、とされている皆様にとっては良い知らせではないでしょうか。
哲学が一部の「マニア」のためだけのものではない、ということなのですから。
知っているだけで効いてくる「最強の知識」
館に引き籠もって「真理」について考えていた昔の哲学者とは違い、現代では「哲学」とは「考え方」であり「方法論」なのですから、様々なものに応用可能です。
実際、特に欧米では哲学者は深く社会と関わり、新しい常識や考え方が形成されていく場の最前線で仕事をしています。
そして、哲学者ではなくても「エスタブリッシュメント」と言われる欧米社会を主導するエリートの子弟達にとっても哲学は必須の教養、若い頃から哲学を学び、そして社会を支配していきます。
もちろん、このような人達だけでなく、一般人である私たちも、この「知」を知っているだけで視点が上がりますし、様々な分野に応用して大いに活かすことができます。
一を聞いて多くを知ることができるようになり、何かを経験したり、何らかの知識に触れたときの学習量も人生を通して複利で積み重なります。
結果、時間が経てば経つほど発する言葉も変わりますし、それに伴い、その人は見つけられ、選ばれるようになります。 知っているか知らないかで、こんなに大きく差がつく学問分野って他に無いんじゃないでしょうか。
本当に生きていくために大事なもの
巷では東洋思想やスピリチュアルの学びもたくさんあります。 それらに対して思うところはいっぱいありますが、私も嫌いではありません。付き合い方を間違わなければ有用なものだと思います。
ただ、何よりもまず私たちが生きていくために大事なのは、この現代社会の基盤となっている考え方そのもの(=西洋哲学)を知ることであり、それを高い視点から見通していくこと。
私たちが好むと好まざるとにかかわらず、現代社会を動かす思考の源泉には西洋哲学が存在しています。
これは、歴史の中でそうなったことであり、私たちには選べないこと。
私たち日本人の精神性は素晴らしいものだとは思いますが、西洋文明とかかわり、それに相対していく中で様々なものを受け入れる必要があった現代に生きる日本人は、昔の日本人とは全く違った存在であり「古き良き日本人」に戻ることはできません。
であれば、私たちが知らないうちに受け入れてきた、現代社会の基盤となっている考え方(西洋哲学)を知り、そこから自由になり、同時にそれを通じて社会と関わり、よりよき社会を創っていこうとすべきではないか。
その方が、本当の大和魂に触れることができるような気がしますし、なにより生産的であるような気もします。
そんなことも考えながら、みなさん、一人ひとりのビジネスのために、個人としての成功のために、そして人生のために、さらにはよりよき社会のために、この考え方をより多くの人に届けることが自分の使命であると、そんなことを思うようになりました。
ということで、こうした問題意識を山本さんにも共有しつつ、新たに哲学を学ぶ場を立ち上げることになったというのが今回のお話です。次回の記事では、そのご内容をご紹介したいと思います。
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