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「諦めたら死ぬんですよ、現実世界で。」

こんにちは、西洋哲学塾 塾長の山田です。

今日は西洋哲学塾に参加している方からいただいたお声のシェアです。

西洋哲学塾、本当にいろんな方に学んでいただいています。そして、みなさん本当に一生懸命食らいついていただいています。

それぞれの場所で、それぞれの理解度で、それぞれに大きな意味がある。これが抽象度の高い「哲学」という学問の面白いところ。

これまでの人生で触れたこともなかったような思考は、脳に汗をかきますが、汗をかいただけ、人はそれに適応しますし、思考力は向上します。

それでは、どうぞ。


オンライン講座の後、自分に対し 自己否定してます。

その結果 いまだかつてない 不安のないもやもやした感覚の中にいます。動画で復習します。

演繹法 帰納法 日本語の意味も調べてます。

(無記名 様)


「言葉を紡ぐ」

私はこのフレーズがとても好きです。

山田さんのお話のなかでも何度かでてきたと思うのですが…(ですよね?)なんだか胸が「キュンキュン」するのです。

言葉だけではなく「紡ぐ」という「言葉」にどうしようもなく惹かれるのです。

「私たちの世界は言葉に支配されている」

「生まれて死ぬまで言葉という空虚な世界で生きていかなければならない。」という論を聞いた時には一瞬世界が止まりました。

私たちの世界は言葉以外何ものでもなくて、事実などなく、無意味で・・・でも私はその世界で生まれて死んでいく。

私たちの世界は言葉で捏造された嘘の世界で・・・それでも私は言葉を使って生きていく。

なんだか一瞬「言葉」がとても穢れたものに感じましたが、それでも私は「言葉」はとても素晴らしく、美しいと思いました。

そして、これまでの私は考えているつもりで、実は考えているふりをしていただけで、私は「人の言葉を借りて語っている」ということに気づかせていただきました。

私の捏造の腕前は一級品だと思います(笑)。ああ、恥ずかしい。

一年後・・・私は自分の思考を確立して、自分の言葉で美しい物語を紡げるようになりたい!!です。

私は言葉を話すのがとても速かったそうです。保健師さんに「早すぎるくらい」といわれたと母がいっていました。

今思うと、同じ年頃の子どもの誰よりも早く言葉を覚え、読み書きを習得した私は、誰よりも早く言葉で他者(周りの子どもたち)を支配していたのではないかと思うのです。

それが後の「アンチあかね」の大量発生につながっていたのではないかと・・・(笑)

「あなたは間違っている!!」「変だ!!」「嫌いだ!!」と言われることが多くなると、私は自分を否定したり、疑うしかなくなりました。でも私は「それでも」「だけど」と頑張って大人になりました。

中には思い出すといまだに怒りがこみ上げるような出来事もありましたが、哲学を学びだして「アンチあかね万歳!!」とお礼を言うべきだと思うようになりました(笑)。

あなた方なくして、いま私はここにいませんから・・・。

現在、アンチの数は減り、ファンのほうが多くなってきたように思います。

でも「アンチあかね」に出会う数は少なくなりましたが、一人の持つアンチテーゼの熱量が半端ない(笑)

私、その熱、精いっぱい受け取りたいと思います。

ちょっと長い感想文になりましたが、最後までお読みくださり、ありがとうございました。

(無記名 様)


山本雄一郎を家元とする西洋哲学流の師範である山田師匠の開いた私塾に入門した感じですね。

家元は巨大な存在ですが、気さくな師匠の下でこの流派を学び世の中を知る、自分が世の中との関わりをどのように持つのか、関わり方を学んでいく練習生であると思っています。

ここでは、家元は、野球で言うところの4割バッター、かつて存在したことの無い名球会筆頭であり、師匠は、同じく野球で言うところの3割バッター一流打者、練習生が憧れ、目指す存在というものです。

練習生である自分が目指すのは、世の中という対戦相手と相対する存在である入団選手であり、その中でもレギュラー入りすることである、ただし入団人数に制限はなく、対戦相手も自分で探していく自由が与えられている、という感覚です。

ここでは、「勝つ」ことの定義は自分で決めるので、関わり方、どのような結果を得たいのかも自分で決められる自由がありますが、自分が決めなければ何も決まらない、という一面もあります。

今は、師匠のお達しは、話す言葉は分かりやすくうなづいてしまうのですが、本質を読み取れていないのでは、という疑問が付いて回ります。

練習生の方々のレベルが高く、難しい単語が多くてとっつきにくいので、周りを見て自分を比較対象にして自分を卑下してしまうことのないように注意しなきゃ、と思っています。

(無記名 様)


「そこに快楽はあるか」

今回の講義で初めに感じた痛みは、「哲学の快楽に、いつの間にか溺れてしまっていた」というものです。

私は、この西洋哲学塾の前に同じ流れの哲学塾を1年間学んでいました。

それなりに哲学の思考方法が身についてきた感覚がありました。まだ実践には不十分ですが、それなりに結果を残しつつあるかなと。

しかし、第一回目の講義の最初の段階で、「私はわたしと言っていたら、それまで。なんの発展もありません」という内容のことを山田さんが話され、哲学の快楽に溺れていた自分に気付き、恥ずかしくなりました。

天狗になっていたわけでも奢っていたとも思わないですが、ただ、哲学を学び自己否定を乗り越えた新しい快楽を得た感覚は、ありました。

その快楽に酔いしれていたのです。

私は本当に真に快楽主義な人間で、しかもそれに気づかず、乗り越えた気すらして過ごしていた事に愕然としました。

そして常に自己否定をし続けることの難しさを見ました。

しかし、今また成長する場にいます。同じように学ぶ仲間もいます。

1年が短かったと感じるほどに思考する1年にしたいと思います。

「痛み」という気付きを成長への踏み台にして、さらに進んでいきたいと思います。

弁証法で何とか表現できないものか連日考えていましたが、時間となりました。引き続き思考します。

(C.O. 様)


『なんか分かったような気がする』を許してくれない。

「ここまでの全課程を終了しましたをここに証明します。」と誰からも言ってもらえない。

学校のように「卒業予定見込み」に〇して、次のステージへ進めることもない。

自己啓発講座に参加して、参加したらもれなくもらえる資格もない。

人に言える資格も入手できないのに、なぜここで学ぶことを選んだのか。ここで何が得られるのか。

今得られたのは、自分に対する失望。絶望までは行かないのは、まだ痛みがヒリヒリ程度だからだろう。

私、少し賢くなった気がしていたのに。全くの思い過ごしだった。

なぜなら、世の中でまことしやかに流布している「潜在意識」の存在を疑っているのに、それを言語化してつまびらかにすることが、出来ないからだ。

世の中と人の真実を突き詰めることは、そこに厳しさと痛みがあることだけは感じている。

(T.A. 様)


「吹雪の雪山で遭難しているかの如く」

今まで正しい道だと思って歩いていたはずなのに、気がつくと、道がなくなっている。
どれが道でどれが深い谷なのかも分からない。

ホワイトアウトで方向もゴールも分からない。
そもそもゴールはあるのかさえも怪しい。

光にいるのか闇にいるのか。

必死で歩こうとするものの、だんだん、体力と気力の限界。

気が遠くなってきて、「もういいかな・・・別に進まなくても」と魔が差し、目を閉じる。意識が遠のく。

そこに、「起きろ!諦めたら死ぬぞ!」と誰かが声をかける。

よく見たら、それはもう一人の自分。

開講から今までの自分はこんな感じです。

今まで道だと信じていた道(=コード)がなくなり、私自身は新しい道は見つけ出せず(=デコードできず)、視界不良でどんな世界にいるのか分からなくなる(そう、世界に意味はない、常識もない)

くらいついていく気力・体力が減退し(講義ワークや毎日のお題にコメントできず)諦めて楽になったほうがいいかな?

(毎日のお題に投稿できなくてもね、とルサンチマンが働き)・・・。

でも、それこそ、諦めたら死ぬんですよ、現実世界で。

と思ってコペルニクス的展開に頭を悩ます日々です。

(K.S. 様)


ご感想は以上です。

なんか「痛み」と「絶望」のオンパレードみたいになっていますが、誤解しないでいただきたいのは、塾長はいたって優しく哲学をお伝えしています(笑)。

でも、そのように感じさせる、厳しさと深さが、コンテンツである「哲学」自体に内在しているが故のこと。

最初は絶望的な気分になっても、続ける事で心身共に適応しますし、3か月目を迎え、みなさん随分慣れてこられた感じもいたします(シェアしたのは初月の感想でした。)。

最後に、繰り返しになりますが、塾長はとても優しいですからねw。

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この記事を書いた人

クレメンティア代表世話人及び「西洋哲学塾」塾長。

普段は「エグゼクティブコーチ」として、上場企業から気鋭のベンチャー企業までシニアリーダーのリーダーシップ学習を支援。現代哲学に基づくクライアント自身の視座が上がるコーチングが特徴。「東京哲学会議」特別貢献会員。

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