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第0(ゼロ)の創造

目標を設定し、終わりを明確にすることは、マネジメント、コーチング、成功哲学、自己啓発とジャンルに限らず、何かを達成するときの鉄則と言われています。

今回の第二の習慣は「終わりを思い描くことから始める」ということで、今回のテーマは「終わり」について。

終わりはどのように生み出されたのか?

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「終わり」は「始まり」とセットで存在します。

本ならば、最終ページがあれば、必ず1ページ目がある。

迷路ならば、入口が無ければ誰も入れないのですから、誰にとっての出口にもならない。

「7つの習慣」の話に戻すと、「第一の習慣」では、人間にとって回避できない絶望や死を直視しするところから「主体的である」ことが始まるとお伝えしました。

誰にとっての終わりも死であると言える以上、始まり=「いずれ死ぬ存在として生まれたこと」になります。

ということは、人間にとっての「絶望」や「死」という「始まりの前提」を自覚していなければ、スタート地点が分からずゴールを目指すようなもの。

だから「ワクワクすること」「得意ないこと」「自分らしいこと」など、「終わりを持たない理想論」しか持ち合わせていなければ、

終わりを思い描くことから始めた結果はただのファンタジーにしかなり得ません。

だから誰に対しても、自分に対しても説得力を持たない。

前提となる世界観が曖昧であれば、終わりの設定も曖昧になります。

そして、世界観がフワッとしていれば、そこから生み出される理想もフワッとしたものになります。

ということで「終わり」は「始まり」の時点で決定してしまいます。

第2の習慣「終わりを思い描くことから始める」とは「すでに始めの時点である程度結果が見えている」ということです。

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しかしここで一歩引いてみると、「終わりがある」ということ自体も一つの世界観に過ぎないと言えます。

例えば一年の終わり。

正月で一年が始まり、大晦日で終わるのも、そう決めたから。

除夜の鐘がなった後に世界が崩壊するわけではなく、つつがなく新たな日の出を迎えるだけ。

それを有り難がったりするのは人間だけです。

人が死んだら「終わり」と考えるのも一つの世界観。

人間は死ぬ存在だったとしても、それを「終わり」とするかは物事の見方次第です。

自分のことだけ考えていれば、当然自分が死んだら全てが終わりになると考えてしまいますが、自分が死んだ後のことまで想像して生きている人もいます。

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「7つの習慣」では、何かを実現する前にその完成像を想像力によって描くことを「第一の創造」と呼び、それが「第二の習慣」だと語ります。

しかし「第一の創造」の前には、必ず「始まり」として世界の見方があります。

言ってみれば「第0(ゼロ)の創造」。

哲学の基本的な姿勢は、持論を語る前に本当にその世界の見方は正しいのかを疑ってみる「第0(ゼロ)の創造」を突き詰めること。

その結果、最初は「真理の探究」から始まった哲学が辿り着いた現在地が「真理は存在しない」と言う世界観。

自らの手で(ある意味で古き良き)哲学を殺してしまった。

それ以降の話が現代哲学という位置づけです。

この、自らを破壊しても、真理を求めてしまう哲学の悲しい宿命。

しかし同時に、物事の本質を突き詰めていくこの哲学のあり方が、今でもリベラルアーツの頂点として扱われている理由でもあります。

そのような扱われ方を哲学者自身が望んでいたかは別として。

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この記事を書いた人

(プロフィール非公開)
講師陣の中でもっとも哲学者の思考に近い存在。
その血も涙もない論理展開は聞いている者を「ロジカル・ハイ」の世界に誘い、貼り付いている常識を引き剥がし、聞く者の思考を再構成させていく。
しかし、その根底から感じられるアツい想いが聞く者に中毒性をもたらしたりもしている。
時折、聞こえてくる異世界からのロジックをどうぞお楽しみください。

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