全てのものは疑うことができても、自分がそのことを考えている時点で「私は確かに存在する」ということだけは言える、という考え方を示した「我思う、ゆえに我あり」という言葉。
ここから始まった近代的な思考法は、人間が神に依存する存在ではなく、自らの力によって思考し、進化できるという世界観を生み出しました。
そこから数百年後。
「7つの習慣」の第一の習慣として挙げられている「主体的である」は、「人間は状況に対して、どう反応するかを選択できる」という考え方のことであり、
源流はまさにこの近代思考がベースです。
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さてこの第一の習慣、実践しようとすると、主体である「わたし」が確立されていないとどう反応するか決められないということになるわけで、
必然の流れとして、自分の内面を見つめる方向になります。
しかし自分の内面を理解しようとしても、私たちは、直接「わたし」を認識することはできません。
だから言葉を使って自分を認識しようとすることになります。
「自分が本当にやりたいことは何か?」
「自分だけの強みは何か?」
「自分らしさとは何か?」
ところが、これらの言葉はこんな問題も生み出します。
「モチベーションが上がらない。自分が本当にやりたいことはこれはじゃなかったのではないか?」
「今やっていることは、自分に向いていないんじゃないか。」
「今のは自分らしくなかった。」
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それらを問題として真っ向から取り組んでもいいのですが、「人間は状況に対して、どう反応するかを選択できる」のだとすれば、
一歩立ち止まって、そもそも「わたし」とは自分自身でコントロールできる対象なのか考えてみるという選択をとることもできます。
少し考えれば、人間は「死」から免れ得ない存在であったり、自分の意思に関わらず、抗いがたい欲望を持っていることによって、自分でも望んでいないようなことをしてしまう存在だということに気付きます。
だから自分を冷静に理解しようとすれば、「わたし」とは「自分ではコントロールできない部分を持っている存在」であることを認めざるを得ません。
一方でそういうことには目をつむり、ポジティブそうな言葉で自分を塗り固めることで「主体的な」人生を送っていると嘯く人もいます。
しかしそれは主体的というよりも、人が「良い」と評価するお手本をなぞるようなもの。
「ポジティブなそれっぽい言葉」と「自分自身」は別のものにも関わらず、人はいつしかその言葉を基準にして自分を評価するようになっていきます。
そして余計な問題が増えていく。
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どうしてこのような問題が起きるのか?
それは、矛盾するように感じるかもしれませんが、主体的であろうとする動機が「わたし」起点になっているからではないでしょうか。
言い換えれば、「わたし」にとって「都合のいいわたし」を探しているだけ。
「自分探し」をしているつもりが、結局「自分に都合のいいこと探し」になってしまうのと似ている。だからいつまでも自分など見つけられない。
それは「わたし」でもなんでもなく、ただの「自分にとって心地いい言葉の集合体」という、得体のしれないものでしかありません。
しかし現実は、自分の都合で出来ているわけではありませんから「自分に都合のいい自分」で都合のいい結果が出るわけではない。
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「わたし」という言葉は、一見すると自分自身をコントロールできると思わせるような言葉です。
しかし、冒頭で挙げた「我思う、ゆえに我あり」は、「自分が存在している」ということまでしか言っておらず、「自分が自分を、自分の都合でコントロールできる」とまでは言っていません。
「自分が何がしたいのか」「何ができるか」以前の問題として、「わたし」という存在は人間の本質に確立させられている。
人間の本質に根ざした、絶望や死も含めた「自分がコントロールできない領域」を直視するところから、「主体的である」ことが始まるのではないでしょうか。
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