岸本達也です。
前回の記事は「私が一番叩かれたこと」という題で投稿しました。
今回の内容はその補足として、叩かれることの意味について書いてみます。
前回の記事で「意味づけの書き換えは、時に勇気のいる作業となる」と書きました。
世間から否定されたり批判を受けるからです。
ただし、世間から叩かれるということは、社会の中で少数の意見であり、他に同じ主張をする者がいない、もしくは少ないということです。
この状況で求める方がいるなら、他に選択肢がありませんから選ばれるという過程を省略して、ただ必要とされることになります。
要は、こちらから選ばれようとする必要はなくなります。
そしてそんなことよりも、世間から叩かれるような主張を理解し、納得できる方だけが必要としてくれます。当然その方が結果を出しやすくなります。
そんな方が出した結果を見て、今までの認識を変える人が増え、世の中の常識も少しずつ変わることになります。
そのようなことに気づいた今となっては、叩かれない発言をする方が、私にとって勇気の要ることとなりました。
もちろん、叩かれる発言といいましても、常識外れなことを言って叩かれるだけでは、ただの変な人、困った人でしょう。
当然何も変わりません。
せっかく叩かれるような発言をするのですから、必要とされる方に、何かを手渡せるものでなければなりません。
今回は50年以上前に著された書籍を参考に書いてきました。
他にも、世間の常識に添わないことで苦しんでいる人にとって力となる言説は、多くの哲学者が残しています。
私の場合、そのようなものに触れる前から、叩かれる発言を繰り返していましたが、最近は伝え方や話す内容が変わったせいか、理解し納得してくださる方も増えました。
そんなことも、私が哲学から学んだことの一つです。
私が身を置く環境も少しずつではありますが、変化し続けているように感じます。
最近は叩かれることも少なくなっているような気もします。
もしかすると、これは良くない兆候なのかも知れません。
これからも、意味のある形で叩かれる発言をし続けたいと考えています。
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