コピー機で資料をコピーすると、わずかだが元の画像よりも劣化して印刷されることはご存知だと思います。
これは紙についての話ですが、このことは、その紙の上に書かれてている活字ついても言えることです。
活字が発明されてることによって人間の認識はどのように変化したかを分析した人がいます。
彼が言うには「アルファベットの発明以前、人間同士のコミュニケーションは全感覚を同時に含んでいた。
この種のコミュニケーションの即時性と豊かな複合性は、アルファベットによって抽象的な視覚記号に縮小されてしまった。」と。
ここで言うアルファベットとは活字のことです。
これは、活字に発明によって、人間のコミュニケーションの効率は上がったけど、それによって失ったものがあると言うことを意味しています。
活字は今まで話し言葉などを書き言葉にしたもの、手書きの文字になっているものを、機械によってコピーしたものだと言えますが、活字の誕生と普及によって、コミュニケーションが話し言葉中心から書き言葉中心になり、全身体的に感じ取っていた情報を視覚だけで捉えるようになった、劣化した、とその分析者は指摘しているわけです。
これをさらに応用して考えみたいと思います。
例えば、学び方について。
何か心理学、コーチング、英語、プログラミングなんでもいいですが、学んでいるとして、人から与えられているものだけを吸収している段階は、まさにその体系のある側面の一部を学んでいるに過ぎず、情報が激しく抜け落ちている、劣化している状態であると言えます。
また、その学んでいる対象それ自体にも必ず源流があり、その源流からどれだけ劣化させることなく体系化しているかは吟味する必要があります。
しかし、最初のコピー機の例のように、どんなに正確にコピーしようとしても、どうしても多少の劣化は起こってします。
ということで、この世にあるものは大なり小なり全て劣化コピーに過ぎないと言えるのかもしれません。
今、オンラインの環境も整い、多くの学びの機会が私たちの手元にあります。
そのような中で、学ぶ時に何が重要になるか。
それは何かを学ぶという行為以前に、学ぼうとしている対象はどれだけ源流に近いか?
これを先に考えてから何かを選択することが今まで以上に問われているに違いありません。
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